空いた時間に匿名掲示板を少しずつ作っています。
水のしずくで、ひきこもり当事者が参加し辛いという意見があります。
「社会参加者が多いから」というのが一番の理由のようです。
この事について考える上でとても参考になる記事を見つけたので紹介します。
田中俊英さんという方が書かれた「ひきこもりとルサンチマン」です。
http://homepage2.nifty.com/donutstalk/resenti.htm以下引用。
「ひきこもり」概念に取り憑いているように感じられるルサンチマンとは何か。
これは元々は哲学の概念で、あのニーチェが100年以上も前に鋭く指摘したものだ。「怨恨」とか「反感」などと訳される。ニーチェの文章は難解なので、解説書からその定義を引用すると以下のようになる。
「ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のこと」
(『ルサンチマンの哲学』15頁、永井均著、河出書房新社)
つまり、現実の生活では(たとえば自宅にひきこもっていて)何ら活動的ではなくとも、頭の中では、主としてその時代のメジャーな価値観(たとえば「仕事をする」「恋愛をする」「明るく生きる」など)を攻撃する、そうした思考パターンや感情の動きのことをいう。そしてついには、その復讐感情のほうを正当化する。僕がこのように要約してもあまり説得力がないので、「当事者」が書いたエッセイから、より具体的な事例を引用してみよう。
「『確かに俺は24年間、一度も女の子と付き合ったことないけど、現実の女なんてしょせんゴミだね!(略)』/そんな哀れな自己欺瞞こそがルサンチマンの発露なのだ。/そしてこの鬱屈した感情は、しまいには世の価値基準の転覆を試み始める。(略)『女と付き合っている男は全員ダメだ。外に出てチャラチャラしてるヤツらは全員クズだ。俺みたいに孤独な思索生活を長年続けてきた男こそが一番格好いいんだ! だから俺に早くメールをよこせよ!(略)』……だが彼の矮小なルサンチマンには、世界の価値基準を転倒させるだけの力などない」(『超人計画』7-8頁、滝本竜彦著、角川書店)
そしてこの思考・感情は、ある種ループを描く。
つまり、「自分はダメな人間だ、だから変わりたい」→「けど、こうなったのは自分を迫害してきた社会のせいなのだ」→「でもその『社会』もよく考えれば矛盾だらけだ」→「だから自分はそんなくだらない社会の、くだらないルールを否定している」→「ということは自分の生き方のほうがすばらしいではないか」→「けれども現実の自分の生活は変化しない」→「やはり自分はダメな人間だ」……。
この思考回路のことを、上記エッセイの滝本氏は、「ルサンチマン打破運動そのものが、ルサンチマン発生源と化してしまう」と見事に自己分析しているが、ルサンチマンという言葉を自分で表現できる滝本氏は、実は「ひきこもり」とは全然違うレベルに立っているので、氏の例はここまでとしよう。ただ少しだけ補足すると、「ルサンチマン」という言葉を知ってしまった滝本氏は、実は、ルサンチマンの思考・感情の枠組みからすでに出てしまっている。氏は、ルサンチマンの外に世界があることに気づいてしまった人間なのだ。
ルサンチマン打破運動の出発点はたぶんここにあると僕は思うのだが、先走りはやめる。以上のように、「ひきこもり」にはルサンチマンという思考・感情が取り憑いており、これが青年たちの悩みをループさせている。
引用終わり。
納得です。
そうなると、確かに水のしずくを「社会参加するためには」を意見し合えるサイトにしようとしてもすぐにはうまく行かないのもわかります。元ひきこもりであったとしても現在社会人でいる人の事は、ひきこもり当事者からすれば、もう仲間ではないと感じるんですね。「『普通』に成り下がってしまった人間の言う事なんか」という感覚でしょうか。(もちろん全ての人がそうとは言い切れませんが)
現在水のしずくを利用している社会参加者の方は(私自身も含め)「普通ではない社会参加者」だと思います。「普通ではない社会参加者」とは今の社会で生きることに疑問を抱いている人、「普通の社会参加者」とは疑問を抱いていない人、と考えてみるとだんだん問題点が見えてくる気がします。
状態は大きく4つに分けられると思います。
| - | 精神的状態 | 社会的状態 |
| A | 世の中に馴染めない | ひきこもり |
| B | 世の中に馴染めない | 社会参加者 |
| C | 世の中に馴染める | ひきこもり |
| D | 世の中に馴染める | 社会参加者 |
AとBが、水のしずくが主に対象とする人です。
Cはいわゆるニート(社交的で能力もあるがどこにも属さない人)ですね。Cについては雇用失業情勢などが大きな要因で、水のしずくの守備範囲外なのでここでは除外して考えます。
Bは社会通念上は問題は無いとされますが、無理やり社会の方に合わせているため本人の心の中では大きな苦しみを抱えています。水のしずくは「AはBになれるよう、またBはBのままで社会参加する事の苦痛を和らげられるようにするサイト」が理想形です。AをDにしようとしても、本人がそうなる事を望んでいないのでうまくいかないし、私個人的にはDになる必要もないと考えています。BとDの違いは、私を含め違いを実感している当人にとってはとても大きな問題ですが、社会ではほとんど問題として認知されていません。そのためにAの人から見てもBとDの違いが表面上は見えなくて、あたかもマジョリティであるDになる事を強要されているような感覚に陥ってしまい、この事が水のしずくにひきこもり当事者が参加し辛い要因の一つなのではないかと思いました。
要は言葉の定義の問題なんですよね。
ひきこもりの人が参加する上で抵抗がないようにする方法としては、「ひきこもり」「社会参加者」に替わる別の単語を使えばいいのですが、なかなかこれという単語が思いつきません。
「ルサンチマン」という単語を使う事も一瞬考えましたが、あまり一般的な単語ではないし学術的でもあるので、はじめてサイトに来た人には理解される以前に受け入れられないでしょうね。
単語はこのままで、上に書いた図をサイトの趣旨のところに載せておけば少しは参加し辛い状況が改善するかな。ゆっくり考えていくことにします。