準ひきこもり

水のしずくのサイト上で使っている「社会参加者」という言葉を「準ひきこもり」にしようと思っています。
「準ひきこもり」という概念を最初に提唱したのは富山国際大学の樋口教授。
論文はネット上で読めます。
大学生における準ひきこもり行動に関する考察(PDF)

水のしずくで「準ひきこもり」という言葉を使いますが、言葉の用法として樋口氏の論文の内容に全面的に同意するものではない事を最初にお断りしておきます。
というのも、この方が言われているように
樋口氏の論文は、状況認識は正確だが、処方箋が大きく間違ってしまっていて保守的価値観の反復に終わっている。状況を正確に判断した上で、その現象に対する原因理解をした上での処方箋が必要
だからです。

論文の具体的な問題点の指摘はすでにネット上で大勢の人がされていて、あえてここで反復する必要もないので「準ひきこもり」で検索して読んでみて下さい。
ここではそれらと重複しないと思った点についてだけ書きます。

【樋口氏の保守的価値観】
極めて自閉的かつ無為に過ごすのだから、社会性がほとんど身につかず、卒業しても会社での激務など到底できない。立ち直るのは難しくそのまま人生自体を無駄にしかねない。
だから社会性を身につけなければいけないという論調。
この論文だけではなく社会全体にこの風潮があるように感じるんですが、私は個人的に「社会性を身に付けない人生を送るという選択もあり」だと思っています。
誰とも交流せず孤独に物語をひたすら書き続けて死後に作品が発見された「ヘンリー・ダーガー」は生き方は完全に「準ひきこもり」ですが、彼の生き方が間違っていると主張する人は見かけません。逆にアウトサイダー・アーティストと呼ばれ高い評価を受けています。
しかし現代の「準ひきこもり」は問題視され、矯正が必要だというこの矛盾が、現代の価値観の不完全さを表しています。

「卒業しても会社での激務など到底できない」などの全く根拠の無い決め付けも理解できかねます。対人関係が苦手でも、自分の得意分野を伸ばして自分なりの人生を立派に送っている人は大勢います。運悪く得意分野が見つからず、本当に会社についていけなかったとしてもその体験や悩みもまた大切な人生の一部です。そうした挫折を身をもって体験する事で、はじめて自己分析・自己修正が可能になります。
その生き方に問題があるという穿った見方こそ偏見の塊であり、問題です。
私事ですが、16歳頃から人と関わらない生き方を選択したはずなのに、気がついたら自分から関わらなくても人のほうから関わってきてくれるようになっていました。
「自分が変われば世界が変わる」というのは実体験からそう思えます。
ブッダは「人生は苦だ」と言ったそうですが、苦をとことん突き詰めていくと不思議な事に、いつのまにか自分は苦のなかにはいないんだと思えるようになります。逆に、楽を探せば探すほどどんどん苦しくなっていく。
準ひきこもりは楽を追求する社会が生んだ現象じゃないかと思います。
幸福な生き方というもののレールが実在するかのように教育されてきて、成長するにつれセンシティブな人ほどそれが間違っている事に気付く。しかし周囲からは「お前が間違っている」と責められ元の「幸福な生き方のレール」に戻るよう強要される。そうして身動きが取れなくなってしまった人が「ひきこもり」「準ひきこもり」という状態に陥るのではないでしょうか。

【準ひきこもりの処方箋?】
本人が間違っていると認識しているレールに無理やり乗せても前に進むはずもありません。レールは他にもあるんだと言う事に気付けば自分からそのレールに乗っかって進みだすでしょうし、それが唯一の解決方法なんじゃないかなと私は思います。少なくとも「元のレールに強制的に乗せようとする」方法はなんの解決にもならないのではないかと。
処方箋という言葉にも「外部からの対処が有効」という考え方が透けて見えるので、正確ではないかもしれません。当事者がその人自身のレールを見つけない事には無意味です。


※補足
学歴や職歴に穴があって働きたくても働き口が無い、というような問題はひきこもり問題ではなく就労問題のカテゴリになるので、その人の「レール探し」は別問題として扱います。
ブログランキング・にほんブログ村へ
▲応援クリックお願いします

テーマ : 自分らしさ - ジャンル : ライフ

儀式的行動と仕事モード

昨晩NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀 イチロー・スペシャル」を観ました。
イチローは試合で必ず行う一連の儀式的行動があります。
バットを太ももにこすりつけ、屈伸、素振り、バッターボックスに入ってからまずバットを見て、それからバット越しに投手を見る。
それについて彼は「決めた型に従って体を動かしているうちに頭がそのモードに切り替わる」というような事を言っていたのが強く印象に残りました。

そういえば自分も思い当たる事があります。
会社勤めしていたとき、顔を洗い、着替え、電車に乗って通勤し、タイムカードを押し、自分の席に座るという一連の行動が、無意識的に頭を仕事モードに切り替える重要な意味があったんだなと思うんです。
当時はそんなことは全く意識していませんでしたが、退職してフリーランスになってからそうした毎朝行う行動がなくなって、なんとなく今はいざ仕事しようとしても頭が仕事モードに切り替わらずにエンジンがかかりにくいというかグダグダしている感覚があるんですよね。

人間の頭は無意識の領域で「こういう一連の体の動きをしたときは頭をこういうモードに切り替えるんだぞ」という指令が発生してるんでしょうか・・・。日本の茶道や剣道、柔道でも「型」がとても大事だと言われていますがそれと何か関係がある気がします。

今年はフリーランスとして頭を仕事モードに切り替えるための、毎朝行う自分なりの「型」を作ろうかなと思います。
ブログランキング・にほんブログ村へ
▲応援クリックお願いします

テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術